二十数年前のこと。「この席代わってもらっていいですか?」と高校生らしき少年に声をかけられました。そのような言い回しを聞くのは初めてのことなので、知らん顔をしていたら、その少年は困惑した表情をうかべながら、「困ったオッサンだ」というような雰囲気を醸し出して周りを見渡しているのでした。
もしかしたら自分に話しかけられているのかと思って彼を見ると、ズンと迫力満点に寄ってきて「代わってもらっていいですか?」と同じフレーズを。
ここ数年になって、「お名前をここに書いてもらっていいですか」「そこに暗証番号を入れてもらっていいですか」などなど、上場企業の窓口でさえこの有様です。そういった言い方がやたら耳についてどうにも収まりどころが悪く、スッキリしないまま過ごしていました。
「〜してもらっていいですか?」。の言い回しのどこに違和感を覚え、何が釈然としないのか、それをはっきりと言葉にできないもどかしさで、さらにモヤモヤに勢いをつけたまま、出口を見つけられずに自身の内部で鬱積だけがてんこ盛りに。
そこで、「してもらって」と「いいですか?」を分けて考えてみました。
「してもらって」は、話者が相手に対して依頼をしながらの受け身の態勢でしょう。言い換えれば、「私は(あなたに)〜してもらいたい」というように換言できるのではないでしょうか。
前述の出来事に当てはめると、「(私はあなたに)席を代わってもらいたい」ということになると思います。
ところが、理屈をこねまわしてみると、「〜してもらいたい」の「たい」という希望を表す自らの積極的意思を隠しているのです。隠したまま、「してもらって」のなかに希望も含まれているくらい忖度しろよ、と(思っているのかどうか、知りませんが・・・)。
で、そのあとに「いいですか?」と続くのが、実はクセモノです。なぜ「私」に「いいですか」と許可を求めるのか。「してもらって」「いいですか」と、その判断を相手に丸投げしたように見せかけ、自分はその言葉に対して責任を取ろうとはしない。しかも、「してもらいたい」とお願いしている立場から、「いいですか」となるつながりは、話し言葉として、あるいは文法的に、また礼儀として不自然です。
おそらく、相手を気づかって謙虚な言葉遣いを心がけているつもりなのでしょうが、おおよそ「謙虚」とはほど遠い、「不遜」な言い回しになってしまっているように見受けられます。
席を代わってもらいたのなら、「席を代わっていただけませんか」と言えばいいだけ。こちらの都合が悪ければ、その事情を説明して「申し訳ないが、この用事がすむまでここを立つわけにはいかない」と応答することもできます。
それが、まったくの初対面の人間に対して「いいですか」とこられると、「よい・よくない」の本来の意味から外れて、ついには訳がわからなくなって、脳みそがパックの中でぐちゃぐちゃに崩れた豆腐状態になっているのではないかと怖くなってしまう。
しかしながら、大勢の人たちはおおらかというか寛容というのか、「〜してもらっていいですか?」と言われると、粛々と(?)実行されておられる。頭が下がります。
もちろん、言葉は生き物だということは承知しています。しかし、それにも限度があると老人は静かに憤りを隠せずにおります。
蛇足ではありますが、我が身の保身のために以下を添えておきます。
この言葉遣いをされておられる方、すべての人たちの心理に前述のことがあるとは思いません。いえ、むしろ、そういった面倒くさいことを考えて使われておられるわけでもないでしょう。周りで使っているから、いつの間にかそれがスタンダードになっているだけなのだろうと推察します。
そして、重箱の隅をつつくような「言葉狩り」を、目論んでいるわけでもありません。
ただ、「何気に〜」にも同様のことが言えますが、言語として意味が通らない、釈然としない自身の胸のつかえの原因を探りたかっただけであります。
さらにもちろん、こういう言い回しをされるたびに口角泡を飛ばし目くじら立てているわけでもありません。ちょこっと、心の中でため息をついているだけです。
不愉快な思いをされた方がおられましたら、私の不徳と不勉強の致すところです。ご容赦ください。
ご意見がございましたら、コメントを書いてもらっていいですか?(>_<)
(G)
posted by アルファスクール at 17:31|
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ごとー