2024年06月18日

心の余裕

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昨日記事にした新しい教科書の話ですが

4年前にはこんな記事を書いていました。

「新しい英語教科書」

前回同様色々ぼやかして書いていますね。

1年生の初めから

be動詞と一般動詞が同時に出てきて大変と

書けばいいのに

勿体ぶっていたのか

何かに配慮したつもりになっていたのか。

記事の中で、○○○と伏字にしているところには

「過去形」と「三単現」が入ります。

「三単現よりも過去形を先に教えるとは何事か!!」と憤る私に

後藤Tが心の余裕を見せつけてくる一幕があったようです。
(読むまですっかり忘れていました(汗))

さて、そんな後藤Tですが

最近は動画の作成に励んでいます。

「ごとーの文法講座」

思えばいつの時代もアルファスクールで

最先端を行っているのは後藤Tですね。

スマホを持ったのも一番早かったですし(笑)


さてさて、明日から「大原野中」は期末テストがスタートです。

大原野中学の1・2年生は

今日の英語・数学の授業は

明日の国語・理科の対策をしますよ。

・・・図らずも国語とは!!





あけた

四角数字1第163回の『日日是漢字(にちにちこれかんじ)』の答え
【 憧れ 】【 あこがれ 】

四角数字2第162回の『日日是漢字(にちにちこれかんじ)』
【 覆す 】【 くつがえす 】の正答率 【 67% 】



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posted by アルファスクール at 14:23| Comment(0) | ごとー

2023年09月14日

老人のたわごとですが

 二十数年前のこと。「この席代わってもらっていいですか?」と高校生らしき少年に声をかけられました。そのような言い回しを聞くのは初めてのことなので、知らん顔をしていたら、その少年は困惑した表情をうかべながら、「困ったオッサンだ」というような雰囲気を醸し出して周りを見渡しているのでした。

 もしかしたら自分に話しかけられているのかと思って彼を見ると、ズンと迫力満点に寄ってきて「代わってもらっていいですか?」と同じフレーズを。

ここ数年になって、「お名前をここに書いてもらっていいですか」「そこに暗証番号を入れてもらっていいですか」などなど、上場企業の窓口でさえこの有様です。そういった言い方がやたら耳についてどうにも収まりどころが悪く、スッキリしないまま過ごしていました。

「〜してもらっていいですか?」。の言い回しのどこに違和感を覚え、何が釈然としないのか、それをはっきりと言葉にできないもどかしさで、さらにモヤモヤに勢いをつけたまま、出口を見つけられずに自身の内部で鬱積だけがてんこ盛りに。

そこで、「してもらって」と「いいですか?」を分けて考えてみました。
「してもらって」は、話者が相手に対して依頼をしながらの受け身の態勢でしょう。言い換えれば、「私は(あなたに)〜してもらいたい」というように換言できるのではないでしょうか。
前述の出来事に当てはめると、「(私はあなたに)席を代わってもらいたい」ということになると思います。

ところが、理屈をこねまわしてみると、「〜してもらいたい」の「たい」という希望を表す自らの積極的意思を隠しているのです。隠したまま、「してもらって」のなかに希望も含まれているくらい忖度しろよ、と(思っているのかどうか、知りませんが・・・)。

で、そのあとに「いいですか?」と続くのが、実はクセモノです。なぜ「私」に「いいですか」と許可を求めるのか。「してもらって」「いいですか」と、その判断を相手に丸投げしたように見せかけ、自分はその言葉に対して責任を取ろうとはしない。しかも、「してもらいたい」とお願いしている立場から、「いいですか」となるつながりは、話し言葉として、あるいは文法的に、また礼儀として不自然です。

おそらく、相手を気づかって謙虚な言葉遣いを心がけているつもりなのでしょうが、おおよそ「謙虚」とはほど遠い、「不遜」な言い回しになってしまっているように見受けられます。

席を代わってもらいたのなら、「席を代わっていただけませんか」と言えばいいだけ。こちらの都合が悪ければ、その事情を説明して「申し訳ないが、この用事がすむまでここを立つわけにはいかない」と応答することもできます。
それが、まったくの初対面の人間に対して「いいですか」とこられると、「よい・よくない」の本来の意味から外れて、ついには訳がわからなくなって、脳みそがパックの中でぐちゃぐちゃに崩れた豆腐状態になっているのではないかと怖くなってしまう。

しかしながら、大勢の人たちはおおらかというか寛容というのか、「〜してもらっていいですか?」と言われると、粛々と(?)実行されておられる。頭が下がります。
もちろん、言葉は生き物だということは承知しています。しかし、それにも限度があると老人は静かに憤りを隠せずにおります。

蛇足ではありますが、我が身の保身のために以下を添えておきます。
この言葉遣いをされておられる方、すべての人たちの心理に前述のことがあるとは思いません。いえ、むしろ、そういった面倒くさいことを考えて使われておられるわけでもないでしょう。周りで使っているから、いつの間にかそれがスタンダードになっているだけなのだろうと推察します。
そして、重箱の隅をつつくような「言葉狩り」を、目論んでいるわけでもありません。
ただ、「何気に〜」にも同様のことが言えますが、言語として意味が通らない、釈然としない自身の胸のつかえの原因を探りたかっただけであります。
さらにもちろん、こういう言い回しをされるたびに口角泡を飛ばし目くじら立てているわけでもありません。ちょこっと、心の中でため息をついているだけです。
不愉快な思いをされた方がおられましたら、私の不徳と不勉強の致すところです。ご容赦ください。

ご意見がございましたら、コメントを書いてもらっていいですか?(>_<) 
      (G)
posted by アルファスクール at 17:31| Comment(0) | ごとー

2023年01月06日

徒然に思うこと

 「盗んだバイクで走り去り〜」という、尾崎豊の歌があります。
いわゆる、その当時の「ワル」を表す象徴的な表現とでも言えばいいのでしょうか。このフレーズだけで、主人公にどういうドラマがあり、その後どう変遷していくのかということが、ある程度イメージできるかもしれません。もちろん、あくまでも歌詞の世界での出来事ですが。

 尾崎豊をリアルタイムには知らないのですが、彼の死後さまざまに言う人が現れて、そういう人がいたのかという程度の知識です。

 十年ほど前のことでしょうか、この歌を聴いた少年が「バイクを盗まれた人がかわいそう」とつぶやいた、ということを何かで読んだ記憶があります。

 「草食系男子」という新語もそのころだったでしょうか。
発想をそちら側にもっていくのかという驚きとともに、「優しいひと」のまん延による「優しさごっこ」と、少々皮肉めいた視線で眺めていました。

 「優しい」や「優しさ」を否定するつもりなどさらさらありません。お互いに足りないものを補い合う、相互扶助によって社会が構成されることに異論はありません。

 一方で、「何か」あるいは、「どこか」物足りない感覚が拭えませんでした。
 ここ最近、とくに感じるのは「弱さ」。もっとはっきり言ってしまえば、「軟弱」です。それも、女子にではなく男子に強くそれを痛感しています。
 (いえ、決して「硬派」を追求しているわけではありません。)
 
 ひと言で言い表せば「打たれ弱い」男子のまん延。
 それが「優しい」や「優しさ」と連関しているのかどうかを責任を持って言い切ることはできませんが、相手に優しくするということは、あくまでも発信側の心情です。優しくするという発露があるということは、自身の内部にそういう種が育っていることだと解釈していました。

 回りくどい言い方になりましたが、つまりは、相手に発する優しさはあくまでも一方的なものであるべきもので、そこに見返りを求めるものではないものだと思っています。言い換えれば、「純粋な愛」ということになるのでしょうか。

 「僕が優しくしてあげたのだから、あなたも僕に優しくしてくれて当然でしょ。」ということは大いに違うと思います。自然な発露としての「優しさ」のそれとは似て非なるものです。

 その論で続けると、打たれるということは、彼には大いなる想定外の衝撃的な痛恨事であり、対処できない事態に陥ってしまいます。そういうとき彼はどうするかというと、緊急避難という自己防衛の世界に籠もります。つまり、自分に優しくしてくれない(と思っている)相手から遠ざかるという行動に出ます。

 誤りや間違いを直球で指摘すると、「優しさ」ばかりに囲まれた彼はそういうことに慣れていないからうろたえる。そして、耳の痛いことを指摘した相手を恐れ、優しくないと嫌悪し悪しざまに罵る言葉を、陰で吐きます。

 誤りや間違いを見て見ぬ振りをして、その場を穏便にやり過ごすことが優しさではないはず。もちろん、指摘する側に「優しさ」が備わっていれば、発する言葉の選択は重要な位置を占めることは言うまでもないことです。つまりは、想像力とでも言えばいいのでしょうか。ここでこの言葉を使えば、相手はどう受け止めるだろうか、自分の謂わんとすることが伝わるかどうかと、受け手側の心情を慮ればおのずと言葉に拡がりが出てくるはずです。

 しかし、たとえそうでなかったとしても、指摘された側は、まずは自分を振り返るという謙虚な姿勢があるかどうか。そして、自分の脳みそを使って、好き嫌いという感情は横に置いて、そのことそれ自体を考えるという作業をしているかどうか。ここが大きな分岐点になるのではないかと思います。

 言葉が過ぎたかもしれません。しかし、ここ数年そういう現実を切実な思いで見ています。

 年が改まりました。
 逞しい優しさで、一年を過ごしたいと思っています。  (G)
posted by アルファスクール at 16:39| Comment(0) | ごとー