たとえば、行かない☞行かへん。 見ない☞見いひん。 食べない☞食べへん。
来ない☞来いひん。 しない☞しいひん。
京都弁で打ち消す場合の「〜へん」と「〜ひん」には法則があるようです。
つまり、五段活用と下一段活用には「〜へん」。上一段活用、カ変、サ変には「〜ひん」と。私たちは、無意識にこの「へん」と「ひん」を器用に、そして上手に使い分けているようです。
ところが、標準弁は「ない」の一点張り。なんとも味気ない。
あ、「標準弁」という呼称は勝手につけただけです。「標準『語』」って、ちょっと厚かましくないですか。百歩以上譲って「標準」としているだけでもありがたいと思うべきです。ただ、おおよその人に伝わるであろうと予測できる言語が必要なことは理解できるので、とりあえずその「標準」席は譲っておきます。
およそ50年近く前、遠い地方にいたときこんなことがありました。
「これは使ったら駄目だと伝えてきてくれ」と伝言を頼まれたのです。で、ぼくは「これは使うたらあかんで」と伝えに行ったのです。割烹着に姉さんかぶりの年配の村の女性は目を白黒させて「あかん?あかんてなんね」と。「あかんもんはあかんねん」と何度も言うのですが通じる気配がなく、仕方なく照れながら「駄目っちゅうこと」と全身で赤面しながら、「駄目」というキザなことばを使ってようやく伝言の役目を終えたということがありました。
その当時、まだ関西の芸人はあくまでも関西ローカルだけでのメディア露出でしかありませんでした。もちろん、和田アキ子のような関西出身の歌手はいたのですが、全国放送になるとなぜか「標準弁」に変換して喋っているという時代でした。
ですから、べたべたの京都弁や関西弁というのは遠い地方の、それも過疎の村の人たちには、まるで外国語かと思わせるように通じなかったのです。
いろんな地域出身の人たちと同じ空間にいると、次第に言語生活が混乱してくることがあります。
語尾に「〜べ」や「〜べさ」を無意識につけてしまっていることに気づかされることがあります。「次はお前ぇだべ」「さっき言ったべさ」となっています。京都弁だと「やで」とか「やん」となっていたはずです。「次はお前やで」「さっき言うたやん」が、言語環境の変化によって脳が自然と予測変換をしていたかのようです。そして、その方がお互いのコミュニケーションがスムーズに運ぶことを学習しました。
そんなあるとき、岡山県の山あいの農家に1カ月ほど居候させてもらったことがありました。そこには小学生低学年くらいの男の子が二人いて、農作業の合間にいっしょに遊んでいたとき家からお母さんの呼ぶ声がしたので、「行くべ」というと、子どもたちは文字通り地面に転げ回って笑いだし、「『行くべ』だってぇ〜」と何度も言いながら顔をくしゃくしゃにして転げていました。
「おえんよ」というやわらかな響きのある岡山弁に新鮮な方言の刺激を受けていたのですが、わずか一カ月程度ではそれを即妙に使いこなすことはできませんでした。もう少し居候生活を続けていれば巧みにとまではいかないまでも、不自然ではない使い方ができたのではないかと思うのですが。
あれ、「京都弁と標準弁」から東北・北海道弁、そして岡山弁に話題は変換してしまっていた。話題は自在な生き物なのですね。
自在ついでにもう一つ。京都弁だけなのか、関西弁に共通しているのか定かではありませんが、一語の単語を使うとき語尾を伸ばします。
例えば、標準弁で「歯が痛い」は「歯ぁが痛い」となり、「手が出ない」は「手ぇが出えへん」となります。「目を開けて見ろ」が「目ぇ開けて見ぃや」、「気をつけろ」も「気ぃつけや」とね。
やっぱり、標準弁は聞くものに味気なさを漂わせますね。
ということで、方言万歳。(G)
2023年01月19日
京都弁と標準弁
posted by アルファスクール at 18:03| Comment(0)
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